葛飾の歴史
時代ごとに葛飾の歴史をまとめました。
旧石器時代
この時代は最終氷期にあたり、地球全体が寒冷化していました。極地の広い範囲に氷河が発達したため、海水面は現在よりも著しく低下し、海岸線は浦賀水道付近まで後退していました。葛飾区はもちろん、現在の東京湾は陸地となり、古東京川と呼ばれる川が流れていました。谷や丘などが入り組んだ、起伏のある地形であったと推定されています。
厳しい環境の中で、人々は獲物を追いかけ移動し、関東平野の各地にその足跡を残しています。しかし、残念ながら葛飾区内では、旧石器時代の遺跡は発見されていません。
厳しい環境の中で、人々は獲物を追いかけ移動し、関東平野の各地にその足跡を残しています。しかし、残念ながら葛飾区内では、旧石器時代の遺跡は発見されていません。
縄文時代
気候はだんだん温暖化し、それにともない海水面も上昇し始めました。この海水面上昇を「縄文海進」と呼んでいます。約6,400年前に縄文海進はピークを迎え、海水面は現在より数mも高くなりました。海は関東平野の奥(栃木県藤岡付近)にまで入り込み、奥東京湾と呼ばれる大きな湾を形成しました。つまり、葛飾区を含む東京低地は、海の底になったのです。
縄文海進のピーク後、海水面は徐々に後退し始めます。また、河川によってもたらされる土砂が海を埋め立て、東京低地は再びゆっくりと陸地化していきました。
葛飾区内では、柴又河川敷遺跡において、縄文土器の破片が出土しています。しかし、縄文時代の葛飾が人の住める環境であったかは疑わしく、他の地域から、河川によって運ばれてきた遺物である可能性も考慮する必要があります。
縄文海進のピーク後、海水面は徐々に後退し始めます。また、河川によってもたらされる土砂が海を埋め立て、東京低地は再びゆっくりと陸地化していきました。
葛飾区内では、柴又河川敷遺跡において、縄文土器の破片が出土しています。しかし、縄文時代の葛飾が人の住める環境であったかは疑わしく、他の地域から、河川によって運ばれてきた遺物である可能性も考慮する必要があります。
弥生時代
河川がもたらす土砂によって、弥生時代の終わり頃には、青戸・柴又の一部分は陸化したと考えられています。柴又河川敷遺跡では、弥生時代の土器がほぼ完全な形で出土しています。出土したのは高さ20cmほどの壷で、外面は赤く塗られていました。また、柴又の古録天東遺跡、青戸の御殿山遺跡でも、弥生時代後期の土器が出土しています。しかし、この時代の人々が住んでいた具体的な証拠(例えば住居跡など)は、今のところ葛飾区内では発見されていません。生活範囲の一部として、人の往来があったのかもしれません。
古墳時代
河川が氾濫することによって、河道に沿って土砂が堆積します。これが繰り返されることによって、周囲よりも高い微高地(自然堤防)が形成されます。こういった微高地を拠点に、古墳時代には集落が営まれています。
葛飾区内で最古の集落遺跡は、青戸に所在する御殿山遺跡です。およそ1,600年前の古墳時代前期のもので、竪穴住居・掘立柱建物・井戸などが見つかり、多量の土器が出土しました。興味深いのは、出土品の中に、近畿・東海・北陸地方に由来する土器が混じっていたことです。これらの土器は、葛飾と各地域の交流を物語る貴重な資料です。
古墳時代中期の遺跡は、葛飾区内では見つかっていません。しかし、続く古墳時代後期では、集落は奥戸(注釈1)・立石(注釈2)・柴又(注釈3)にも広がっていることが確認されています。柴又では、古墳も築かれています(柴又八幡神社古墳)。石室の石材として、房総半島南部で産出される凝灰岩が使用されており、これらの地方との関わりをうかがえます。また、立石周辺にも古墳が築かれています(南蔵院裏古墳・熊野神社古墳)。
葛飾区内で最古の集落遺跡は、青戸に所在する御殿山遺跡です。およそ1,600年前の古墳時代前期のもので、竪穴住居・掘立柱建物・井戸などが見つかり、多量の土器が出土しました。興味深いのは、出土品の中に、近畿・東海・北陸地方に由来する土器が混じっていたことです。これらの土器は、葛飾と各地域の交流を物語る貴重な資料です。
古墳時代中期の遺跡は、葛飾区内では見つかっていません。しかし、続く古墳時代後期では、集落は奥戸(注釈1)・立石(注釈2)・柴又(注釈3)にも広がっていることが確認されています。柴又では、古墳も築かれています(柴又八幡神社古墳)。石室の石材として、房総半島南部で産出される凝灰岩が使用されており、これらの地方との関わりをうかがえます。また、立石周辺にも古墳が築かれています(南蔵院裏古墳・熊野神社古墳)。
(注釈1) 鬼塚遺跡・本郷遺跡
(注釈2) 立石遺跡
(注釈3) 古録天東遺跡・古録天遺跡・柴又河川敷遺跡・柴又八幡神社遺跡
奈良・平安時代
奈良時代には、律(行政法)と令(刑法)が制定され、戸籍による人民支配が始まりました。葛飾区を含む一帯は、下総国葛飾郡に編成されました。養老5年(721年)に作成された「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」が、奈良東大寺正倉院に伝わっています。それによると、大島郷には、甲和里(こうわり)・仲村里(なかむらり)・嶋俣里(しばまたり)という集落が存在していたことがわかります。甲和里は江戸川区小岩、嶋俣里は葛飾区柴又に該当すると考えられています。仲村里については、最近の調査から、葛飾区奥戸を有力地とする見解もありますが、正確な場所はわかっていません。
旧利根川(現在の江戸川)を挟んだ対岸の地、千葉県市川市には、下総国府(しもうさこくふ)(注釈4)がありました。国府というのは現在の役所のことで、中央から派遣されてきた役人(国司)や、在地の役人(郡司)が勤めていました。柴又に所在する古録天遺跡・古録天東遺跡・柴又帝釈天遺跡からは、墨書土器(注釈5)・須恵器水滴・緑釉陶器・漆器・巡方(じゅんぽう)(注釈6)などが出土しています。当時、文字を書けるのは、教育を受けた一部の人々に限られていました。また、緑釉陶器や漆器は、一般庶民では所持できない高級品です。役人など上流階級の人々が、柴又の地に居住していたのかもしれません。
また、中央(畿内)と地方を結ぶ道路も整備されました。葛飾区が位置する東京低地には、東海道が通っていたと考えられています。当時の正確な道筋は不明ですが、現在にも引き継がれている地割りなどから、そのルートが推定されています。地図を見てみると、墨田区墨田―葛飾区立石―江戸川区小岩間に、直線的な道路が存在しているのがわかります。この道路沿いに「大道」という地名が残っていることからも、この道路が古代の東海道であった可能性が考えられます。
(注釈4)下総国府:下総国を統治する行政機関
(注釈5)墨書土器:墨で文字などが書かれた土器
(注釈6)巡方:律令時代の役人の官位を示す銅製の帯飾り
(注釈5)墨書土器:墨で文字などが書かれた土器
(注釈6)巡方:律令時代の役人の官位を示す銅製の帯飾り
中世
鎌倉時代
平安時代末頃から、桓武平氏の流れを汲む葛西氏が、葛飾区を含む一帯を支配していました。葛西氏は伊勢神宮に土地を寄進し、「葛西御厨(かさいみくりや)」と呼ばれる荘園を掌握していました。初代の葛西清重は、鎌倉幕府将軍の側近として、信頼も厚かったといわれています。奥州合戦で手柄をたて、滅亡した奥州藤原氏に代わり、その地の治安維持にあたりました。6代清貞の時に奥州へとその拠点を移し、天正18年(1590)豊臣秀吉に滅ぼされるまで、地方領主として栄えたそうです。
室町時代
15世紀中頃には、関東管領(注釈7)上杉氏によって、青戸に葛西城が築かれました。当時、上杉氏と鎌倉公方足利氏との関係が悪化し、両者の衝突は避けられないものになりました。享徳3年(1454)、享徳の乱(注釈8)の後、古河に移った足利氏に対峙するためにも、葛西城は西の要として重要な役割を果たしました。
(注釈7)関東管領:鎌倉公方(関東を統治した鎌倉府の長官)を補佐する役職
(注釈8)享徳の乱:鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺害した事件。その後、成氏は古河に本拠を構えたことから、古河公方と呼ばれるようになりました。
安土・桃山時代
天文7年(1538)、小田原北条氏(後北条氏とも呼ばれています)によって、葛西城は占拠されます。城の再整備が行われ、堀の規模も拡張されました。
天文7年(1538)と永禄7年(1564)の二度にわたり、小田原北条氏と房州里見氏が戦った国府台合戦(こうのだいがっせん)では、柴又河川敷遺跡が広がる一帯が戦場になりました。この付近の江戸川は「からめきの瀬」と呼ばれ、浅瀬になっています。大正6年(1917)の河川改修工事の際には、多数の槍・刀が出土したそうですが、残念ながら現在では、遺物の所在を確認できません。
天正18年(1590)、豊臣秀吉によって小田原北条氏は滅亡し、葛西城の中世城としての役目も終焉を遂げました。
天文7年(1538)と永禄7年(1564)の二度にわたり、小田原北条氏と房州里見氏が戦った国府台合戦(こうのだいがっせん)では、柴又河川敷遺跡が広がる一帯が戦場になりました。この付近の江戸川は「からめきの瀬」と呼ばれ、浅瀬になっています。大正6年(1917)の河川改修工事の際には、多数の槍・刀が出土したそうですが、残念ながら現在では、遺物の所在を確認できません。
天正18年(1590)、豊臣秀吉によって小田原北条氏は滅亡し、葛西城の中世城としての役目も終焉を遂げました。
近世
江戸時代
戦乱の世が終わり江戸時代になると、葛飾区は武蔵国に再編成され、幕府直轄の農村地として整備されました。万治3年(1660)には葛西用水(注釈9)が、享保14年(1729)には上下之割用水(注釈10)が開削され、農耕地へと灌漑用水を供給していました。そして、大都市江戸の消費を支えていたのです。
葛飾には湖沼が多かったことから、鷹狩りに適する土地として知られており、幕府将軍もしばしばこの地を訪れています。葛西城跡地には御殿が造られ(青戸御殿)、鷹狩りの際の休息所として利用されていました。八代将軍吉宗の頃には、小菅に御殿が造られました(小菅御殿)。また、江戸に住む庶民にとっても、葛飾は保養地として人気でした。江戸時代後期には、柴又帝釈天への参拝や、堀切菖蒲園への行楽などで賑わったようです。
江戸と地方を結ぶ交通網も発達し、街道や宿場の整備も行われました。葛飾には、水戸佐倉街道(注釈11)が通っていました。金町と松戸間の江戸川河川敷には関所が設けられ、行き交う人々と物資を取り締まっていました。
(注釈9)葛西用水:埼玉県羽生市で利根川の水を取水し、亀有5丁目付近を通り、綾瀬川を交差し墨田区へ入るルートで、約70kmに及ぶ流路でした。
(注釈10)上下之割用水:都立水元公園内の小合溜井を水源とする農業用水で、中川より東側の農耕地の灌漑に利用されました。
(注釈11)水戸佐倉街道:江戸から千住を経て水戸に通じる道(水戸街道)と下総国佐倉に通じる道(佐倉街道)が、葛飾区新宿町で分岐していました。
(注釈11)水戸佐倉街道:江戸から千住を経て水戸に通じる道(水戸街道)と下総国佐倉に通じる道(佐倉街道)が、葛飾区新宿町で分岐していました。
このページに関するお問い合わせ
生涯学習課博物館事業係
〒125-0063 葛飾区白鳥3-25-1
電話:03-3838-1101 ファクス:03-5680-0849
Eメールでのお問い合わせはこちらの専用フォームをご利用ください。